浜松のうなぎの蒲焼
「浜松」、「浜名湖」といえば「うなぎの蒲焼」が有名です。
日本の鰻の養殖の先駆けとなった浜名湖周辺地域はかつては全国生産量の7割を占めるほどの一大産地でした。
全国1位を誇っていた浜名湖の鰻も今では他地域の生産量には及びませんが、高度な技術と恵まれた環境で養殖された鰻は浜松、浜名湖の名物としての地位を確立しています。
浜松には数多くの鰻料理店があり、浜松うなぎ料理専門店振興会には浜松市内の鰻料理専門店が32店舗加盟しています。
又、浜松駅では鰻の駅弁が販売しており、気軽に本格的な鰻弁当を食べる事ができます。
浜松市のうなぎの蒲焼の消費額は2009年~2011年まで全国1位で、浜松は鰻の町ともいえます。
うなぎの歴史
日本ではうなぎの食用の歴史は古く、縄文時代まで遡ります。
縄文時代の土器からはうなぎの骨が出土されており、どのようにして食べていたのかまではわかりませんが古来よりうなぎを食用としていた事がわかります。
うなぎが初めて文献に登場するのは「万葉集」で、「武奈伎(むなぎ)」と呼ばれています。
大伴家持により「石麻呂に吾れもの申す夏痩せによしといふものぞむなぎ取り召せ」と詠われており、当時より滋養がある食物として認識されていたようです。
「むなぎ」と呼ばれていたのは「棟木(むなぎ)」に似ているとか、うなぎの胸の部分が黄色い「胸黄(むなぎ)」であるからなどといわれています。
うなぎの蒲焼の誕生と歴史
文献によりうなぎの蒲焼は1399年に存在していた事が確認できますが、当時はうなぎを筒切りにして串に刺して焼いており、多年性植物の「蒲の穂」に似ていた事から蒲焼と呼ばれていたようです。
室町時代には筒切りにして焼いて塩、酢味噌、辛子酢などで食べていましたが、室町時代末期には醤油、酒、山椒味噌などで味付けしていたようです。
現在の様に開きにして食べる様になったのは江戸時代になってからで、醤油と味醂ベースのたれをつけて食べていたようです。
江戸時代にはうなぎの蒲焼は大流行となり、料亭、定食屋だけでなく、庶民料理として露店で販売されていました。
1852年には「江戸前大蒲焼」なる江戸の鰻屋が221軒も掲載された番付表が出たほどです。
関東と関西の違い
うなぎの蒲焼は関東と関西で調理の仕方が違います。
関東ではうなぎを背開きにして白焼きして蒸してから焼くのに対し、関西では腹開きにしてから蒸さずに焼きます。
関東の調理法では蒸すので余分な脂が落ちて柔らかくて食べやすくなっています。
一方、関西の調理法では蒸さずに焼くので脂がのっていて歯ごたえがあって美味しいです。
うなぎの料理法
鰻料理といえば蒲焼が代表的ですが、もちろん他にも様々な料理があります。
白焼き、うな重、うな丼、ひつまぶし、うなぎ茶漬け、握り寿司、ぼくめし、うなぎ串、肝焼き、鰻巻き、肝吸い、せいろ蒸し、うなり寿司、半助、かぶと焼き、酢の物、フライなどがあります。
「ぼくめし」とは浜名湖近辺の鰻の養殖場の従業員達の賄い料理として生まれたもので、簡単にいえば鰻とごぼうの炊き込みご飯です。
「ぼく」とは大木やぼっ杭の事で大きくなり過ぎて出荷できない「うなぎ」を使用します。
但し、うなぎだけだと臭いがキツイので、臭いを消すためにごぼうと一緒に炊いたのが「ぼくめし」です。
うなぎの大きさには規格があるのであまりにでか過ぎると出荷できません。
そんな特大のうなぎは市場には出ずに地元で消費される事になります。
地元だけでしか食べれない郷土料理です。
うなぎの養殖
うなぎの養殖は1879年(明治12年)に東京深川千田新田で服部倉次郎が2haの養殖池で最初に行われました。
1891年(明治24年)に原田右衛門が浜名湖付近の現在の湖西市で7haの養殖池で始めました。
1891年(明治30年)には服部倉次郎が浜松市で8haの養殖池で開始。
その後、浜名湖周辺で鰻の養殖が本格的になり、うなぎといえば浜名湖といわれるまでになりました。
これは浜名湖や天竜川周辺でうなぎの稚魚が沢山取れた事もあり、浜名湖周辺は温暖で交通の便も良かったので養殖に適した地であったからです。
うなぎの養殖は浜名湖といっても湖の中ではなく、湖周辺の養殖池で行われます。
昭和20年代、30年代と養殖が盛んになり、浜名湖周辺を中心とした静岡県のうなぎ生産量は最盛期には全国の約7割を占める事もありました。
その後は全国各地に養殖が普及し、外国産鰻の輸入増加もあり静岡県の生産量は減少しています。
2011年には養殖鰻の生産量は鹿児島県、愛知県、宮崎県に続いて、静岡県は全国4位になっています。
相対的な生産量は低下した浜名湖の鰻ですが浜松、浜名湖の名物は鰻として全国的にも名を知られています。
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