「信州そば」の定義
「信州そば」とは長野県信州そば協同組合の登録商標であるそば粉を40%以上の干しそばを指します。
製麺業者や飲食業者は登録商標である「信州そば」の呼び名を正確に使いますが、一般的には長野県で作られるそばをまとめて「信州そば」と呼んでいます。
「信州そば」の発祥と歴史
「信州そば」発祥の正確な時期は不明ですが、そばを麺状にして食べる「そば切り」は1574年の信州木曽定勝寺の落成祝いに振る舞われたのが最古の文献記録です。
それまでも日本国内では蕎麦が食べられていましたが、「そばがき」や「そば団子」などが主流でした。
信州は山間地、高冷地が多く、昼夜の気温差が高くて蕎麦の栽培には最適な土地柄です。
稲作に不向きな信州では蕎麦の栽培が盛んになり、江戸時代には信州信濃国の本山宿から全国に麺状の蕎麦が広まっていったといわれています。
そばの歴史
世界的にはそばの発祥地は中国南西部の雲貴高原付近とされていますが、日本では高知県の9千年以上前の縄文遺跡からそばの花粉が発見されています。
埼玉県の3千年以上前の縄文遺跡でもそばの種子が発見されていますが、存在は確認できても作物として栽培されていたかどうかまではわかりません。
蕎麦が日本の歴史上はじめて文献に登場するのは、奈良時代の歴史を記した「続日本記」で8世紀頃です。
文献では栽培の容易な蕎麦を救荒作物として奨励されている事が記述されており、この頃から既にそばの栽培が始まっていたと考えられます。
鎌倉時代、室町時代になると頻繁に文献に登場するようになり、そばの栽培が普及していった事が窺えます。
江戸時代には信濃国本山宿から蕎麦を麺状にする「そばきり」が全国に広まったと伝えられていますが、とりわけ江戸では信州そばがルーツとされる江戸そばが大変な賑わいを見せるようになりました。
江戸で1789年に信州の行商人が信州更科蕎麦屋を始めたのをきっかけに、藪そばと共に江戸中にそばが広まりました。1860年には江戸府内には3,763店のそば屋があった事が確認されています。
信州そばの産地
山岳地帯が多い信州では各地で蕎麦が生産されており、戸隠、柏原、飯山、更科、美麻、番所、奈川、開田、伊那など数多くの名産地があります。
長野市戸隠の「戸隠そば」は岩手のわんこそば、島根の出雲そばと並ぶ日本三大そばの一つで、馬蹄型のぼっち盛りで出されるザルそばが特徴です。
伊那市の「行者そば」は西暦700年頃、修験道の開祖である役小角(えんのおずぬ)が修行として駒ケ岳を登山した際に地元の方々に世話になった御礼に渡した蕎麦の種に由来しています。
地域では役小角から貰った蕎麦の種を大事に育て、伊那地方だけでなく信州全域に広まったと伝えられています。
「行者そば」は大根おろしに焼き味噌を入れた辛つゆで食べるのが特徴です。
木曽郡木曽町の開田高原では開田名物の冬の漬物の「すんき漬」を使った「すんきそば」があります。
「すんき漬」とは開田高原で獲れる赤カブを乳酸発酵させた漬物で、そばつゆと一緒に煮込んでそばと一緒にしたのが「すんきそば」です。
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